寒天誕生の歴史
寒天発祥−寒天の原型はトコロテン?
江戸時代の1685年に現在の京都で、旅館『美濃屋』の主人・美濃太郎左衛門が戸外に捨てたトコロテンが凍結してしまいました。その後日を経た乾物を発見し、これでトコロテンをつくったところ、前よりも美しく海藻臭さが無いものができたのです。
これを黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励されます。このとき、この食べ物についての名前を尋ねられましたが、まだ決めていなかったためその旨伝えると、隠元が「寒天」と命名したといわれています。
その後、大阪の宮田半兵衛が製法を改良し寒天を広げ、さらに天保年間に信州の行商人・小林粂左衛門が諏訪地方の農家の副業として寒天作りを広め、角寒天として定着します。
1881年、ロベルト・コッホが寒天培地による細菌培養法を開発したため、寒天の国際的需要が増えます。このため、第二次大戦前は寒天が日本の重要な輸出品でしたが、第二次世界大戦中は戦略的意味合いから輸出を禁止することになります。
寒天の供給を絶たれた諸外国は自力による寒天製造を試み、自然に頼らない工業的な寒天製造法を開発します。こうして作られたのが粉末寒天です。1946年になると日本でも研究が始まり、1970年頃には製造会社が35社にまで達します。しかし、2004年現在は5社ほどにまで減っています。
現在では、モロッコ、ポルトガル、スペイン、チリやアルゼンチンで良質の寒天が製造されています。